2018.11.20キャンプ場で喧嘩?(回想)

私の認識では討論、でも相手の認識では大喧嘩だったという、思い出話。

 

私自身キャンプを始めた頃は自然環境保全とか言われるとワクワクしました。自然に溶け込む色の装備を好んで揃えましたし、洗剤は悪だとまで思っていました。それは、回数を重ねる事で、こじれたり捻じれたりし、じきに強い信念を捨てました。圧倒的に正しい主張と言う物に疲れてしまい、うそ臭さを感じて仕舞ったのです。

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現像したからこそ残って居た写真

その頃、新たに同行者に加わった友人が居ました。彼は根っからの自然愛好家です。あるとき私が、サイト脇の渓流で魚釣りをしていると、彼が寄って来て言うのです。「私は、ゴルフと釣りはしないんです」私は、糸の先の目印を見つめたまま「うん、知ってる」と言いました。「ゴルフ場は、大量の除草剤や殺虫剤を撒くんですよ。知ってますか?」彼は続けます。「らしいね」私は、変わらず気の抜けた相槌を打ちました。「食べ物が豊富にある時代に、魚釣りをする必要ってあるんでしょうか?」この時点で、私は彼の言葉が、私への抗議だという事には気づいています。「さあね」私は、はぐらかします。この討論に合意が無い事を私は直感して居ました。出来れば、「遠回しな抗議に、思うような反応を得られなかった事」に、小さく肩を落として引き下がって欲しかったし、正直面倒くさかったのです。

しかし、彼は引き下がらなかった。

そうなのです。仕方ありません。気の済むまで付き合うために、私は竿を畳み、他の同行者に「ちょっと、二人きりにさせてくれ。いちゃついて来るから」と冗談めかして、場所を移動します。竿を畳んだ事を勘違いしたのか、彼は少し上機嫌でしたが、話はこれですみませんでした。気を良くした彼が、饒舌に自分の自然愛を語り始めて仕舞ったのです。

私にも記憶が有るだけに痛々しい。使い古された表現で言うならば「薄っぺらい幻想」そんな感じでした。

引き下がるを知る

長くてくどい会話のあと、私達は妥協点をみました。私はそのあと彼と居る限り竿を出さないと約束しました。誰かの不快をおしてまでやりたい事など無いと認めたのです。彼は「反論を受け入れる気が無い持論は不快だね。堂々巡りで発展性が無い」という私の言葉を受け入れました。私達のキャンプはそれからも何度となく続きましたが、そこに竿は無く、彼の語り癖も少しずつ変わっていったのでした。どちらも未熟で、今こうして書いていてもむず痒い限りですが、書いている自分がどれだけ成長しているのかを考えると、鳥肌も立ちます。

で、今では

そうですね。今でも「綺麗な自然を感じたい」のは変わりません。でもどこで感じるかは、釣り場でもキャンプ場でもゴルフ場でもイイんじゃない?という感じです。彼とは「喧嘩しましたよね」「あれは喧嘩だったのかい?」と、ちょっとだけ残った痛みを懐かしく語れる仲になりました。勿論そんな話は、焚火と酒がある場での話です。

エピローグ

彼は言います。「焚火って、樹とか土にどれだけダメージ与えるか、知ってます?」私は応えます。「しってる」彼は笑います。「今、絶対適当に応えましたよね」私はうそぶきます。「私はね、なんでも知って居るんだよ」彼も私も知って居ます。必要のない事の楽しさを。そして私は予感するのです。近々彼が、釣りを教えてくれと言い出すのではないかと。